山門
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No.n196 公春院、真正寺、円通寺
No.n196 Kousyun-in, Shinsho-Ji, Entsu-Ji
Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo22pieces/GreenSeason
♪=ベセーナ
◆公春院、松、荒川区最古の手水鉢
◆真正寺、浅草から荒川区に移転、門前町
◆円通寺、彰義隊、黒門
◆大聖観音像、12m、48首塚、三代将軍鷹見の松
◆7重の塔
◇荒川区の寺、寺院
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満海山 公春院 千日寺
インフォメーション
〒116-0003
住所=東京都荒川区南千住1-32-9
電話=03-3801-2942
御本尊=阿弥陀如来坐像
浄土宗
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アクセス
営団地下鉄日比谷線:「三ノ輪」駅より徒歩3分
都電荒川線:「三ノ輪橋」駅より徒歩1分
都バス:「三ノ輪」停留所前
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本堂前の子育地蔵
寛文10年(1670)創建の浄土宗のお寺です。
路地横に石造の山門があり、細い参道を進むと本堂があります。周りには松の木などがあり静かで、今回は見学しませんでしたが、絵本着色仏涅槃図などがあることで知られています。 |
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手水舎(1670年)
公春院の松
浄土宗の寺院。 昭和初期に枯死してしまい、残念ながら現在は残っていませんが、公春院と言えば松が有名だそうです。
「公春院の巨松」は、明治の末頃で周囲が約4m、高さ14m、樹齢は優に500年を超すものであったといわれる。
『遊歴雑記』文政12年(1829)にも、東武36名松のひとつ「証拠の松」として記されている。
江戸時代、新しく寺院を建てることが禁じられていた時代、幕府の役人がこの寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とも呼ばれるようになったという。
寺内に、天明7年(1787)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文10年(1670)銘手水鉢などがある。 |
荒川区教育委員会
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ヤブラン
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手水鉢
造立年代は銘文から寛文10年(1670)5月18日であることがわかり、現在確認されている中で、荒川区内で最古の手水鉢と考えられています。 |
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真正寺
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真正寺 門前町
寛文元年(1661)真正寺が浅草から荒川区に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西20間3尺、南北24間2尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地ですが、荒川区におけるただ一つの門前町でした。
町奉行支配地で、寛延2年(1749)3月に類焼ののち、家作と畑地に分けられた。明治2年(1869)地名を下や真正寺町と改めましたが、同12年(1879)下谷通新町と合併しました。 |
荒川区教育委員会
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真正寺
インフォメーション
〒116-0003
東京都荒川区南千住1-56-9
電話=03-3891-0952
曹洞宗
御本尊=護国観音
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有縁無縁永代供養塔
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本堂
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藤棚
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曹洞宗 円通寺
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本堂
屋上の聖観音像 全長12m
原形=1寸8分 高村光雲作
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インフォメーション
〒116-0003
東京都荒川区南千住1-59-11
電話=03-3891-1368
創建=791年 坂上田村麿将軍による
曹洞宗の寺院。
御本尊=制観音菩薩(聖徳太子 一刀三礼御作)
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アクセス
JR:「南千住」駅より徒歩10分
地下鉄日比谷線:「三ノ輪」駅より徒歩5分
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お地蔵様
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四十八首塚、七重塔、鷹見の松
源義家が奥州を鎮圧した時に、48人の賊首を埋めて供養したとされる「四十八首塚」は「七重塔」と「鷹見の松」を背景に建っています。
「鷹見の松」はその昔、徳川家光が鷹狩りの際に放した鷹が止まったことでその呼び名になったそうです。
「七重塔」は上記の伝誦が刻印されており、荒川区最古の文献と言われています。 |
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円通精舎前に置かれた大砲
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円通精舎
旧幕臣で後に初代人を歴任した
榎本武揚が書いた『円通精舎』の額
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本堂
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さがるほど 見上げる人や ふじの花
下がれば下がるほど、人が見上げる藤の花
謙虚になればなるほど、人は認めてくれる。
と いう意味だそうです。
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↑ こちらは彰義隊のお墓ではありません。
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彰義隊の墓。(画像はございません)
慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。
累々と横たわる隊士の遺体を見た円通寺の仏磨和尚は、官許を得て寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
これが縁となり明治40年、寛永寺の黒門が円通寺に移され、昭和60年に修復工事が行われている。 |
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上野寛永寺の旧黒門
明治40年に、こちらに移築された、上野寛永寺の旧黒門。
無数に残った弾痕が、上野戦争の激しさを物語っています。
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