n195 小塚原回向院と都電三ノ輪橋

東京都(Tokyo-To)
2016/07/17 Sun.  


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荒川区散策





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No.n195 荒川区小塚原回向院、三ノ輪橋
No.n195 Kotukahara Ekoin & Minowabashi

Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo26pieces/GreenSeason
♪=マイ セレナーデ
◆小塚原回向院
◆橋本佐内、套堂、お墓
◆吉田松陰のお墓
◆都電三ノ輪橋
◆三ノ輪橋 商店街
◇お寺、旧刑場
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『荒川ふるさと文化館』でジオラマや、
昭和時代の家の実物大セットや、
関東地方の古い地図など見学して、
興味深いものがありましたが、
撮影禁止の為画像はございません。

と、言う事で、小塚原回向院と都電の三ノ輪橋を
散策することにしました。







先ずは、ふるさと文化館前の
「橋本左内の墓旧套堂(さやどう)」区登録有形文化財です。
もと小塚原 回向院の境内入口に在ったもので、
平成18年、同院の境内整備の際、荒川区に寄贈され、
平成21年ここに復元保存されました。

套堂(さやどう)復元と福井県との交流を記念して 
南千住には、この套堂ばかりではなく、福井県ゆかりの史跡や幕末の史跡が多く所在しています。回向院境内北側に新たに設けられた史跡エリアには、福井藩士橋本佐内の墓、小浜藩医杉田玄白らの「ターヘルアナトミア」の翻訳と「解体新書」の刊行を記念してつくられた観臓記念碑があります。これらは、地域の人々にとって身近なものであり、福井県にとっても重要な史跡となっています。
 多くの方々のご協力を得て、この地に復元が叶った今、「橋本佐内の墓、旧套堂」は地域の歴史を伝えるモニュメントとして、新たなスタートを切りました。
平成21年      荒川区



套堂(さやどう)の中の橋本左内の坐像

荒川ふるさと文化館前に
地域の歴史を伝えるモニュメントとして
橋本左内の 墓旧套堂が復元されていました。

橋本左内は、江戸時代末期の志士、
思想家、越前国福井藩藩士。
著書に15歳の時に志を記した『啓発録』があります。
安政の大獄で逮捕され、最後は斬首されました。





小塚原刑場跡と回向院





墓地

小塚原 回向院(こづかっぱら えこういん)は、寛文7年(1667)
本所回向院の住職:弟誉義観(ていよぎかん)が、行路病死や
刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら
多くの志士たちが葬られている。
 明和8年(1771)蘭学者:杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、
小塚原で刑死者の解剖に立ち会った。後に『解体新書』を翻訳し、
日本医学誌に大きな功績を残したことを記念して、大正11年に
観臓記念碑が建立された。     -荒川区教育委員会-

〒116-0003 荒川区南千住5-33-13
史跡参拝時間=午前9時より午後4時30分







史跡

オールコック行使事件刑死者






烈士名

橋本佐内、吉川忠興、中島久成、川辺佐次郎、村田雲助
窪田新五右衛門、笠井伊織、西川練造落合鉱之介、
柴田之介、佐久良東雄島男也、住谷悌之介、飯泉喜内、
日下部裕之進、伊藤黒兵衛、信太仁十郎、蓮田及三、
千葉昌平、大貫多介、







大貫多介

安政年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外
(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの
脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、
大老井伊直弼を暗殺した事件。
大貫は高橋に随行、捕縛後獄死
















烈士遺墳再建碑








荒川区指定記念物(史跡)
小塚原の刑場跡 回向院

小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(元台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)奥行き30間余り(約54m)約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
 小塚原の刑場では、火罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行き倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時には刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となって行きました。橋本佐内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを検証するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。
(平成18年1月13日指定)    荒川区教育委員会
【問合せ】 荒川ふるさと文化館 13-3807-9234







磯部朝一・妻登美子の墓

陸軍軍人、皇道派青年将校。
陸軍主計官として階級は陸軍一等主計に至るが、
陸軍士官学校事件において停職、その後
文書配布により免官となった。
2.26事件において重臣を殺害し
軍法会議において死刑宣告を受け刑死した






橋本左内のお墓、套堂

(区登録有形文化財)
ふるさと文化館前の套堂の中は左内の座像でしたが、
こちらはお墓でした。







吉田松陰のお墓

(区登録記念物)
安政の大獄で処刑された長州藩士の
吉田松陰のお墓です。
遺体は、松陰神社に葬られています。
◆当サイトで訪問した 吉田松陰神社◆








突き当りに見えるのが、吉田松陰のお墓








突き当りに見えるのが、橋本佐内のお墓
右の壁際の奥から5基目は、鼠小僧のお墓。
・・・・両国の回向院にも在りました。

◆当サイトで訪問した 両国回向院◆











蘭学を生んだ解体の記念に

1771年明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分けを見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰り道3人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年安永3年8月に「解体新書」5巻をつくりりあげた。

これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。
さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年2月25日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
1959年 昭和34年3月4日
日本医史学会/日本医学会/日本医師会



『解体新書』表紙絵

小塚原の刑場跡 回向院
刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町
(現台東区)辺りから移転してきたといわれている。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての
機能は廃止、停止された。



吉展ちゃん地蔵尊

山門脇に村越家から
吉展ちゃん地蔵尊が奉納されていました。



合掌

都電荒川線 三ノ輪橋付近













商店街








商店街








地面に埋め込まれた、タイル









都内で残った都電の数は少なく、
その中の一つ 「三ノ輪橋駅」で、
数台到着する風景を切り撮りました。








たくさんの薔薇が咲いていました。
ご紹介できないのが残念です。







関東の駅100選に選ばれています。





黄色の明るくてかわいらしい
ピカピカのコンパクトな車両に、
いつか乗ってみたいです。^^*





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説明パネル、HP、Wikipedia等、参考・引用させていただきました。


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