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No.c347 旧 渋沢邸 「中の家(なかんち)」と 中宿遺跡
No.c347 Former Shibusawa house,& Nakajuku Ruins
Saitama-Ken /Beautiful Japan
Photo 34 pieces/GreenSeason
◆アンドロイド渋沢栄一
◆展示風景
◆新一万円札の肖像
◆三石碑
◆板倉造
◆校倉造り
◇渋沢栄一、中宿遺跡
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主屋
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旧渋沢邸『中の家』 インフォメーション
   
所在地=〒 埼玉県深谷市血洗島247-1
電話=048-587-1100 (渋沢栄一記念館)
開館時間= 9:00~17:00 (入場は16:30まで)
休館日=年末年始 (12月29日~1月3日)
料金=無料
無料駐車場=あり |
交通アクセス
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栄一が23歳まで過ごした「中の家」
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土間Ⅱ
   
「なかんち」とは。
この家の周りにはたくさんの渋沢家があり、それらのまん中にあったことから「なかんち」と呼ばれています。「なかんち」の人たちは代々農業をしていましたが、栄一が暮らしていたころは、農業の他にも藍玉づくりや養蚕をして、とても裕福でした。
今も残っている大きな主屋は、明治28年(1895)に栄一の妹夫婦が建てたもので、1階の奥には、栄一が帰ってきたときに寝泊まりした部屋が今でも残されています。 |
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    渋沢栄一
天保11年(1840)、今の深谷市血洗島に父・市郎右衛門、母・えいの子として生まれました。幼いころから家業の養蚕や藍玉づくりを手伝い、父親から学問を学びました。7歳ころからは、従兄の尾高惇忠から論語などを学びました。
23歳の時「なかんち」を離れ京の都に出ると、その実力を認められて、徳川慶喜に武士として仕えることになります。その後、慶喜が将軍になると、慶喜の弟・昭武の随行としてパリの万国博覧会に同行し、先進諸国の社会がどのようになっているのかを広く学ぶことが出来ました。
日本に帰ってきた栄一は、明治政府から依頼され、国のために仕事をすることになります。国の仕事を辞めた後は、日本で初めての銀行「第一国立銀行」など、薬500の会社や銀行の設立などに関わり、日本を豊かな国にしようとしました。他にも学校や病院、養護施設を作り、多くの人たちを助けました。
60歳を過ぎた栄一は、忙しくても諏訪神社の秋まつりに合わせて故郷に帰り、獅子舞を見るのを楽しみました。 |
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渋沢栄一 アンドロイド・シアター
   
和服でくつろぐ80歳代の栄一のアンドロイドが、映像との掛け合いで、生まれ育った血洗島や仲間たちとの思い出を語ります。
映像は、撮影できませんが、アンドロイドは撮影可です。^^* |
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室内から見えた庭・池の風景
   
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栄一が帰郷した際に滞在した上座敷
   
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研究小屋
   
栄一の父・一郎右衛門は、藍の目利きで、藍葉を育てるだけでなく、質の良い藍玉(藍染め染料の素)をつくる名人でした。
大河ドラマ「青天を衝け」では、藍の染まり具合を研究する場所として、主屋とは別棟の土蔵の中に、藍を発酵させる研究小屋が設けられていました。栄一が父か藍に関する商売を教えてもらった場所でもあります。
地域のみんなのために努力し、良質の藍葉を見極めて藍玉をつくる研究に熱心な市郎右衛門の姿は、栄一にとって尊敬するべき対象でした。父から学んだ商売への姿勢は、栄一の原点として描かれました。 |
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新日本銀行券
2024年7月3日発行開始
時代に即した題材の採用、ユニバーサルデザイン、
最先端の偽造防止技術を融合した新しい銀行券
   
新一万円券
表:(肖像):渋沢栄一
生涯に約500もの企業の設立等に関わったといわれ、実業界で活躍
裏:東京駅(丸の内駅舎)
「赤レンガ駅舎」として親しまれた歴史的建造物、重要文化財
新五千円券
表:(肖像)津田梅子
女子英学塾(現津田塾大学)を創立等、近代的な女子高等教育に尽力
裏:フジ(藤)
古事記や万葉集にも登場し、古くから広く親しまれている花
新千円券
表:(肖像)北里柴三郎
破傷風血清療法の確立、ペスト菌の発見
伝染病研究所、北里研究所を創立し、後進の育成にも尽力
裏:富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
江戸時代の浮世絵師葛飾北斎の代表作で知名度も世界の芸術家に影響を与えた作品 |
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パリから届いた栄一の洋装写真
   
断髪し洋装姿になった栄一の写真
今日のお供はロザンナです。
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二階の展示風景
   
大河ドラマ関係のの資料が数多く展示されていました。
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「中の家」を後世に遺すために
大黒柱まわりの耐震補強の様子
   
上棟から120年以上を経た主屋を未来へと遺し伝えていくため、令和元年に着手した整備が、令和5年(2023)4月に竣工した。プロポザール方式による厳正な選考を経て、設計・施工を一体的に担ったのは、栄一にゆかりの深い清水建設で、文化財としての価値を保ちながら耐震安全性の向上が図られた。
整備では、耐力壁の集約配置や腐朽部材の交換、新たな基礎の打設、補強金物の設置を行い、渋沢国際学園時代に大きく改築された北側部分には渋沢栄一アンドロイド・シアターを設置した。
さらに、資金の一部をクラウドファンディングにより集めて葺き替えた屋根は、化粧漆喰と寄付者の記名瓦を冠して完成した。 |
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渋沢栄一と「中の家」
   
栄一が23歳までを過ごした「中の家」は、茅葺屋根の主屋で、明治時代に家業の中心が養蚕になると建て替えられた。その主屋は明治25年(1892)、火災で失われ、明治28年(1895)に現在残る主屋が上棟された。
晩年の栄一は幼少期に自身も親しんだ血洗島の獅子舞の観覧を楽しみに、獅子舞が奉納される諏訪神社の祭礼に合わせて帰郷して「中の家」に滞在した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲により焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。 |
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池の鯉
   
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土蔵Ⅱ
   
藍玉づくりの作業場として使われたと伝わる。
大谷石でつくられた地下室を持つ。
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土蔵Ⅰ
   
米蔵として建てられたものと推定される。
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渋沢栄一の 家族に関する三石碑
| 渋沢栄一の父母の招魂碑、栄一の見立て養子となった渋沢平九郎の追懐碑は、栄一の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家墓所内に建立されていたものです。平成26年(2014)3月に現在の場所へ移設されました。 |
渋沢平九郎追懐碑
   
尾高惇忠の弟で、栄一の養子となった渋沢平九郎の追懐碑。
飯能戦争で若くして亡くなった平九郎の死を惜しんで、義父である栄一によって書かれた。 |
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晩香渋沢翁招魂碑
   
栄一の父、渋沢市郎右衛門の招魂碑。
撰文は栄一の従兄であり学問の師でもある尾高惇忠によるもの。 |
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先妣渋沢氏招魂碑
   
栄一の母、渋沢えいの招魂碑。
撰文は栄一によるもの。 |
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渋沢栄一の言葉
   
道徳と経済の合一(ごういつ)は 容易に実行することができる。
| 道徳と経済とは決して相反するものでなく、私の主張する義理合一論(=道徳経済合一説)は、各人の心がけ次第により誰にでも容易に実行することができるのである。 |
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青淵公園
   
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青淵公園
   
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中宿古代倉庫群跡
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インフォメーション
   
所在地=〒 埼玉県深谷市岡 3286-2ほか
連絡先=048-577-4501(文化振興課)
開館時間= フリー
休館日= フリー
料金=無料
埼玉県指定史跡
無料駐車場=あり |
交通アクセス
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菖蒲
   
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アメンボウ
   
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ハスの葉に溜まった水
   
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中宿遺跡からは、奈良時代~平安時代に使われた大規模な倉庫群が発見されました。古代榛沢郡の正倉(税として徴収した稲を保管する公庫)と推定されており、県内初の調査例として話題を集めました。
中宿歴史公園は、「道の駅おかべ」の近くです。 |
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中宿古代倉庫群跡
   
この復元倉庫は、平成3年の発掘調査により発見された16棟の建物跡のうち、もっとも規模の大きい1号建物と2号建物を復元したものです。実際の遺跡では柱穴や基礎の部分だけが発見されたわけですが、復元作業は、当時の歴史的背景や古代の建築技術を参考にして実施しました。
1号建物は、校倉(あぜくら)造りといい、変形6角断面の木材を積み重ねたもので、4隅を堅固に組み合わせているために、非常に頑丈なつくりとなっています。
2号建物は板倉(いたくら)造といい、当時一般的に用いられた工法で、柱の間に厚板を落とし込み壁を作り出しています。
有名な奈良の東大寺正倉院は、この2つの工法を用いて建てられています。 |
2号建物跡復元設計図
規模 |
1号建物跡復元設計図
規模 |
桁行
梁行
高さ 床面積 |
4間(7.8m)
3間(6.75m)
7.1m
52.65m |
桁行
梁行
高さ
床面積 |
4間(8.4m)
3間(6.75m)
9.2m
56.7㎡ |
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左 板倉造 / 右 校倉造り
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中宿古代倉庫群跡
   
中宿古代倉庫群跡(中宿遺跡)は、北に妻沼(めぬま)低地を望む櫛挽台地の先端部に立地し、平成3年に発見されました。主な遺構は掘立柱(ほったてばしら)建物跡、礎石建物跡、溜池状土壌、竪穴建物跡、区画溝などがあり、遺物は須恵器、土師器(はじき)などが出土しています。
遺跡の性格を最も特徴づける遺構は、高床倉庫と想定される総柱式(柱を碁盤目状に配置する方式)建物跡です。多数の高床倉庫が整然と列をなしており、7世紀末~10世紀の長い期間、建て替えながら使用されていたと考えられます。8世紀後半には建物の基礎構造が掘立柱から礎石へと変化しています。
大規模で規格性の高い倉庫群であることから、中宿古代倉庫群跡は古代「榛沢(はんざわ)郡」の役所【郡家(ぐうけ)または郡衙(ぐんが)】の正倉院であり、税として納められた稲穀(とうこく)が収納されていたと推定されます。周囲には郡庁(郡を治める役人である郡司が政治を執る場所)・館(郡司の宿舎)・厨屋(食料の管理及び調理施設)などの諸施設が広がっていると考えられます。
遺跡の周辺には、寺院跡の岡廃寺、大集落跡の熊野遺跡や白山遺跡といった古代の遺跡が広く分布しています。また深谷市内ではこの他に、市域の東端から熊谷市にまたがる範囲で、「幡羅官衙(はらかんが)遺跡群」(古代「幡羅郡」の役所)も確認されています。中宿古代倉庫群跡やこれらの遺跡について調査が進むことで、古代の姿がより明らかになっていくことが期待されます。 |
令和2年11月 深谷市教育委員会
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建物跡
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校倉(あぜくら)造り
   
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