c369 都立横網町公園の彼岸花・東京都慰霊堂

東京都(Tokyo-To)
2024/09/29 Sun.  


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都立横網町公園の彼岸花・東京都慰霊堂

復興記念館脇 震災記念屋外展示場





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No.c369 横網町公園の彼岸花・東京都慰霊堂
No.c369 The cluster-amaryllis & Tokyo Metropolitan Memorial Hall in Yokoamicho Park

Tokyo-To /Beautiful Japan
Photo 31 pieces/GreenSeason
◆都立横網町公園・日本庭園
◆東京都慰霊堂
◆復興記念館・屋外展示場
◆東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
◆幽冥鐘と鐘楼
◆彼岸花
◇公園、記念館、ヒガンバナ
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百馬力電動機


インフォメーション

所在地=〒130-0015  東京都墨田区横網2丁目3番地25号
管理所電話=03-3622-1208
営業時間=公園は終日開放
料金:無料
駐車場=なし
交通アクセス
都営大江戸線『両国』駅(A1)より徒歩3分
JR『両国』駅より徒歩10分
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百馬力電動機

 大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で焼損した、100馬力の電動機。




自動車の焼骸



鳥居の柱


自動車の焼骸

 自動車のボディが焼失し、シャーシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。
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都立横網町公園
 関東大震災【大正12年(1923)】や東京空襲【昭和19~20年(1944~45)】による悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。
東京都慰霊堂
 関東大震災、及び東京空襲の遭難者、16万人余りの御霊を慰霊する施設です。昭和5年(1930)に建てられました。堂内には絵画等の展示もあります。どなたでも入堂できます。
入堂無料。9:00~16:30、年末年始は閉堂。
復興記念館
 関東大震災からの復興事業を記念するために昭和6年(1931)に建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関する資料を展示しています。
入館無料。9:00~16:30 
問合せ、03-3622-1208
休館は、毎週月曜日(祝日の場合は翌日)及び年末年始
-東京都横網町公園管理所-
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鳥居の柱

 浅草区(現在の台東区)駒形にある桜守稲荷のの境内にあった鳥居が、激震により倒壊してしまったものである。
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破壊された大鉄管

 当時、淀橋浄水場の敷地内に山積みされていた幹線用水道管が、激震により無残にも破壊されてしまったものである。
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魚形水雷

 東京高等商船学校(現東京商船大学)内で焼損した魚形水雷(魚雷)の残骸である。
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横網町公園のヒガンバナと日本庭園




日本庭園で、ヒガンバナを探して散策します。








小川








あずまや








見つけました!ヒガンバナ








光天照地 と彫られた石燈籠








池に流れ込む小川








ヒガンバナ








ヒガンバナ








昆虫の嫌いな方は、スルーしてください。








アオサギ













ヒガンバナ






横網町公園







東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

建設の経緯
 「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」は、平成11年3月の東京都議会第1回」定例会における付帯決議「東京空襲犠牲者追悼碑の早期建立について取り組むこと」を受けて、建設の取り組みが開始されました。

 同年10月、碑建設の趣旨に賛同した都民、団体等が「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」を設立し、都民の願いが込められた碑とするため募金活動を行いました(募金期間:平成11年11月から12年9月末まで)。

 平成12年12月、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」から募金活動による 90,659,207円が東京都に寄付されました。東京都は、これを碑の建設経費の一部に充て、平成13年3月に竣工しました。
 碑の作者は彫刻家:土屋公雄氏、作品名は「記憶の場所」です。

東京空襲犠牲者名簿
 東京都は、平成11年度から「東京空襲犠牲者の名簿」の作成に取り組んでいます。
 名簿には、ご遺族等の申し出に基づいて、東京空襲で犠牲になった方々のお名前、年齢、死亡年月日、死亡場所を登載しています。 
 令和6年3月現在 81,489名のお名前を登載しています。
 名簿の表紙には、東京の伝統工芸品である「東京染小紋」を使用しています。




巨大な石燈籠








子供の遊び場








幽冥鐘の由来

 この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。
 震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の日本人に対しても参拝が呼びかけられました。
 また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
 その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正14年(1925)11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。
 この鐘を安置する鐘楼は、昭和5年(1930)8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました、なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。
-東京都-
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慰霊協会事務所
横網町公園管理所















東京都慰霊堂

東京都慰霊堂由来
 この堂は、大正12年(1923)の関東大震災の後に、東京市内で災害の最も悲惨であったここ被服廠(ひふくしょう)跡に、遭難死者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。
 そして、遭難者の霊を祀り、その加護によって今後このような災害の起こらないことを祈願するため、毎年9月1日の震災記念日に慰霊大法要を執り行い、併せて「焦土のなかから東京を復興させた官民の熱心な協力」の思い出をあらたにしようとしたものです。
 ところが、その悲願も空しく、21年を経た昭和19年(1944)の冬から、首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて、関東大震災の数倍もの惨禍を被りました。
 そこで、この戦災遭難者の霊とご遺骨を併せてこの堂に奉安し、昭和26年(1951)9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、最も被害が大きかった東京大空襲の日の3月10日にも毎年東京都慰霊協会主催による慰霊大法要が行われるようになりました。
  ※ 利用時間 9:00~16:30  (年末年始 休み)
  ※ 施設概要 竣 工 日  昭和5年(1930)4月30日
           構   造  鉄骨鉄筋コンクリート造
           延床面積 1,470㎡/最高高さ 40.9m
           設 計 者  伊藤忠太
           納 骨 数  震災 58,000体/戦災 105,000体
-東京都
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伊藤忠太
 慶応3年(1867)出羽国米沢(現・山形県米沢市)の生まれ。
 創設間もない帝国大学・工科大学(工部大学校から移管。コンドルの弟子、辰野金吾が引き続き指導に当たる、現・東京大学工学部)で建築を学ぶ。在学中より日本を含む東洋の建造物や意匠に興味をもち、最新の建築を学ぶため欧米へ留学するのが、常道であった時代に、あえて中国、インド、トルコといったアジア方面へ3年間にわたる研究・視察の旅へと出かけている。欧米を経て帰国後、母校の教授に就任する。
 法隆寺が残存する日本最古の建築物であること、同寺の支柱に、中ほどが膨らんだ、古代ギリシアからアジアへと伝えられていった「エンタシス」の様式が用いられていることを発表する。(この説は評価が定まっていない)などで注目を浴びるが、その後のオフィスビルなど、モダン建築へ連なる最新の建築技法への関心は薄く、近代日本建築史上では取り上げられることが少なく、孤立した人物として扱われることが多い。
 東京築地本願寺など、アジア風の意匠や装飾が建物内外に施された、摩訶不思議な怪しい(もっと言えばキッチュな)建造物を数々手がけており、妖怪や動物(想像上のものも含め)を象った装飾を好んで用いるなど、ユーモラスな性格もうかがわれる。
 建築実務教育を主眼とした「工手学校」(現・工学院大学)の設立にも関与。また私大としては最も早期の建築専門学科を早稲田大学に立ち上げ、東京帝大退官後早大の教授を10年間にわたって務めている。
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東京都慰霊堂 内部








東京都慰霊堂 内部・柱








窓上の展示写真
東京空襲 昭和20年(1945)3月10日
台東区浅草付近 / 撮影 石川光陽

 石川光陽(1904~'89年)は、福井県で生まれる。父が国鉄職員であったため福井・沼津・松本と転居を重ねる。
 松本駅、駅長を最後に退職した父が、同地で写真館を開きたいと告げたことから、光陽は、東京薬学校(現、東京薬科大)を中退、東京九段下の蜂谷写真館で2年間の修業を積んだ後、父親と松本で写真館を開くが、間もなく父が死去(大正13年(1924))。翌1925年、徴兵で朝鮮の連隊へ配属され、写真館は人に貸し出される。除隊後もすぐには松本へもどらず東京の親戚の下に居候していたところ、知り合いの警視庁大崎署、巡査部長の勧めで昭和2年(1927)警視庁に入庁、警視庁でも写真撮影をまかされることが多く、1936年の「二・二六事件」の際、警視庁3階の事務室の窓から、眼下の中庭に待機する反乱兵の姿を必死の思いで撮影したエピソードが残されている。
 大戦中の昭和17年(1942)4月18日、B-25による東京への空襲を受けた直後警視総監から空襲被害記録の撮影を直々に依頼される。
 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の際にも、その惨状を撮影、33枚の写真におさめている。(この記念堂の窓上にある写真もその一つ)
同年5月25日の山の手空襲に至るまで、計600枚以上にのぼる空襲記録写真が撮られている。一般市民による空襲被害の撮影は事実上禁じられていたため、これらの写真は貴重な歴史記録として我々に残されることとなった。(戦後、GHQがこの写真の事を聞き知り、ネガの提出を強要するが、光陽は拒み通し、現像したものを差し出すにとどめた)光陽は1963年に警視庁を退職している。
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今日のお供は、ジョージーナです。



ヤマトシジミ







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お気づきのこと等がございましたら
ご一報ください。→:こちら!
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立札を参考にしました。


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今日もお出で頂きありがとうございました。
よろしかったら 次回もお付き合いください!


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